「ほとばしる気骨」  重源上人坐像の作者は運慶か快慶か

pasarela

2024年11月02日 15:42

 「ほとばしる気骨」  重源上人坐像の作者は運慶か快慶か   

「バリバリ バリバリ」と火の粉が舞う  紅蓮の炎に包まれ「ぐわーん、ぐわーん」と悲鳴を上げる東大寺の大伽藍、炎は容赦なく大仏殿をも飲み込んでいく。
平氏の兵たちは、手当たり次第に松明をお堂に投げ入れている、恐れおののく僧侶たち、西風に煽られた炎は、すでに誰もが手を付けられない。
「アー お堂が お堂が 」僧侶たちの悲鳴が闇夜を切り裂く、その阿鼻叫喚の光景はまるで地獄絵そのものであった。


 治承四年(1180年)、平重衡の南都焼討によって東大寺大仏殿は数日にわたって燃え続け、天平創建の大仏(盧舎那仏像)もほとんどが熔け落ちた。


それからしばらくして
後白河上皇から東大寺復興の名を受け、造東大寺長官を任ぜられた藤原行隆は、南都に赴いた。
大火の後も生々しい惨状を目のあたりにして、一行はただただ呆然と佇むばかりであった。

そんな焼け跡で、精力的に動き回る僧侶に目が留まる。
“あの御坊は …… ” どのようなお方なのか
行隆は興味を覚えていた。 後日、その僧侶の名を知ることになるが、今は知る由
もなく、途方に暮れれるばかりであった。


━養和元年(1181年)八月 醍醐寺
「勅  朕忝(かたじけな)くも幼齢をもって聖緒につく…中略…布告す」
藤原行隆は東大寺勧進任命の奉書を声高々と読み上げる。この宣旨を受けられた御坊は誰あろう俊乗坊重源と言い、焼け跡にて精力的に動きまわっていたあの僧である。

 “あの時の御坊か……  ”と不思議な縁(えにし)に行隆は驚くばかりであった。 

俊乗坊重源は、三度も宋に渡り最新の知識と技術を持ち帰り、それを活かした造寺に関しては経験が豊富(*1)があるなど、勧進の大役を果たす力量と器量を十二分に備えていた。
時に重源は齢61歳であった。


“勧進の宣旨って、破格の抜擢じゃないの?”
宣旨を受けた重源の覚悟と、後白河上皇の決断のほどを推量しながらヨシコは驚く。

“確かにね、でも当時、念仏宗の普及に多大の功績があったようだし、何より法然上人の強力な推薦ってのも大きかったかもね”
 日々の布教における重源の人となりをよく知っていたからこその法然の推薦だったのだろうとクニオは推測する。

『 宗派などにこだわることなく。不自由に苦しんでいるところには、惜しげもなく援助の手を差し伸べている。これは、ちょっと考えると何でもないことのようであるが、実はなかなか大変なことで、そこには重源のまことに度量の広い性格が良く示されているといえよう。                  俊乗坊重源の研究 小林剛 有隣堂 』

“民衆の信頼が厚かったのね”

“そうなんだよ、重源は自らを南無阿弥陀仏と称していたんだって  それで  彼の廻りには多種多様な人々(同行衆)が互いに精神的な連帯をもって集まっていたようだよ”

『 これらの同行衆は、念仏衆、維那(いな)(*2)、番匠などの建築関係者、仏師、鋳物師、僧侶など多彩であった。
これらの人々は、造寺、造仏、写経その他の作善業にあたり、それぞれの分担に応じて、募金に奔走し、技術を提供し、労力奉仕をし、或いは物資運搬のために道路・橋・港湾などの整備にまで関係した。
 重源が提唱した阿弥陀信仰による宗教的結合が、いかに役立っていたかは容易に想像される。                佛教芸術105号 毛利 久 仏教芸術学会 』 

“行基菩薩を彷彿とさせるわね”
行基菩薩は東大寺の創建の際に多大な尽力を果たした僧として知られている。
“そうだね   ”とうなずくクニオ

          これにて前半終了 後半はいよいよ運慶が登場します。

(*1)重源が自ら生涯にわたる造営の事蹟を記した「南無阿弥陀仏作善集」によると約60棟の造営が明記されている。  建築様式の歴史と表現 中川武 彰国社
(*2)維那
寺院で僧に関する庶務をつかさどり、またそれを指図する役職。


                        To be continued


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